『K』、ジャズ喫茶、「こんな絵を描いた」、『断片的なものの社会学』

〈K〉

『K』谷口ジロー:画/遠崎史朗:作/リイド社/1988年刊/part 1から4まで/A5判/並製

『K』谷口ジロー:画/遠崎史朗:作/双葉社/1993年刊/part 5が追加されている/A5判/並製

 

両方とも私のデザイン。リイド社のはジャケットだけ外回りのみ。双葉社の本では、目次、扉、奥付、ノンブルと柱をあらためて作っている。別丁扉(化粧扉)には、カラーでリイド社版のカバー絵を使用。カバーの絵は、新版のための谷口さんの描き下ろし。

 

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「本の雑誌」6月号、山の本の特集「そこに山の本があるからさ!」。巻頭に鳥海修さんの本棚が載った号。そのときに書くつもりだった。特集の座談会「山の本ベスト30はこれだ」で、谷口ジローさんの『K』が選ばれている。

〈G マンガから一冊選ぶのはどうでしょう?

間 一般的な山マンガのベストとなると、『おれたちの頂』か『岳』か、谷口ジローさんの作品のどれかかな。

森 谷口さんの『K』はすごいですよ。スーパークライマー「K」という男が繰り広げる奇想天外なストーリー。

G まさに奇想天外ですね。ちょっとありえない展開もあるんですけど(笑)。

森 逆立ちして風の力で岸壁を登っていくとかね(笑)。荒唐無稽な話なんですけども、なにしろ谷口さんの圧倒的な絵で読ませちゃう。〉

 

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〈ジャズ喫茶〉

すこし前の、森英二郎さんのブログでウィントン・ケリー・トリオの「IT’S ALL RIGHT」とハービー・マンの「herby mann at the village gate」のことが書かれていた。大阪の梅田にあった「Check」というジャズ喫茶に、彼は高校三年生のころによく行っていたのだ。

〈当時「Check」ではリクエストするとLPの片面全部をかけてくれました。しかしその頃は、俺、ちょっとジャズにはうるさいで派の大学生やサラリーマンの間ではジョン・コルトレーンやオーネット・コールマン、セシル・テイラーのような僕にはちょっと難しそうで退屈に聞こえる前衛的なジャズがかっこええでぇ、という雰囲気があり、僕の聴きたいこの二枚のアルバムやホーレス・シルバーのソング・フォー・マイ・ファーザーやラムゼイ・ルイスのジ・イン・クラウドのようなすこし軽いけど人気のあるファンキーなレコードをリクエストするのはちょっと勇気がいったのものでした。〉

森さんは私より一歳上。この話を読んで、同じころ、道頓堀川沿いにあったジャズ喫茶「ファイブ・スポット」で約半年間アルバイトをしていたときのことを思い出した。18歳だった。森さんが書く、リクエストでLPの片面は、どこでも普通。店長のいないときに、バーテンやホールの僕らがよくかけたのは、ルー・ドナルドソンの「ALLIGATOR BOGALOO」(1967年)や「MR.SHINGA-A-LING」(1967年)の「軟弱」だけどファンキーなLP。どちらも同じ女性モデルを使ったジャケット。1967年録音のこの二枚はバイトをしていた前年だ。午前中、まだお客さんがそんなに入っていないときは、こういう曲が気持ちよい。掃除や準備がはかどる。もちろん「IT’S ALL RIGHT」(1964年)や「herby mann at the village gate」(1962年)もターンテーブルにのせる。友達のリクエストは、ごまかして他の客より優先してかけたりした。ウィントン・ケリー・トリオのアルバムにはケニー・バレルがギターで参加している。「ALLIGATOR BOGALOO」のギターは、ジョージ・ベンソン。「IT’S ALL RIGHT」のジャケットの絵は、ロイ・リキテンスタインみたいな絵だけど違う。Cover illustration by Russ Galeのクレジットがある。当時、カッコいいと思った印象的なデザイン。

 

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〈こんな絵を描いた〉

人形町ヴィジョンズの『こんな絵を描いた』展は6月24日に終了。総入場数、約160人はいつもより少ない。2014年から続けたシリーズの展覧会のまとめで、新作と自選の旧作をそれぞれ一点ずつ出品している。大高さんと丹下さん、森さんの大きな作品が再び展示された。細部を見る。部分を切り取っても絵になる。さすがだ。大きな絵の力だ。

 

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「浅草図」(縦1456mm×横3090mm)

当時の浅草の人々がいきいきしている。久保田万太郎少年が祖母と学校に出かける姿がある。乗り合い馬車、天秤棒を担いだ物売りや街頭で演奏する三味線弾き、隅田川の釣り人、川の土手を散策する人、サッポロビール、吾妻橋を渡る人たち、人力車に乗った人、子守り、交番の巡査、路面電車、パノラマ館、六区の観覧車、ひょうたん池、職人、女中さん、お店、仲見世、隅田川に舫う船など。この絵は明治30年頃。新作は2点。「万太郎と一子」「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」。

 

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「日和下駄 一名東京散策記」(縦60cm×横180cm)

荷風散人が色んな場所にいる。ウォーリーならぬ、荷風を探せ。隅田川にかかる五つの橋が描かれている。橋は右から 吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋。駒形橋、蔵前橋は大正3、4年当時はまだ出来ていなかった。この絵は大正4年。新作は「濹東綺譚」。

 

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「人生山水図」(縦1030mm×横2184mm)

そのときどきの、丹下さん本人がちりばめられている。撮影現場の彼女、大きなポートフォリオを抱えて大須に向かって歩く彼女、スケッチブックを持って谷底を見ている彼女、デッサン教室の彼女、口から大きな息を吐く少女、ストライプ柄の上着が多い。新作は「私と名古屋 その後」

 

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『断片的なものの社会学』岸政彦/朝日出版社/2015年刊/四六判/並製

書名のタイトルと本文が游明朝体R。

私が買ったのは2016年3月、5刷。NHKラジオの「すっぴん」金曜日で高橋源一郎の著者へのインタビューで知る。

 

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〈私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。〉

〈そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くのひとにかこまれて暮らしているのに、脳のなかでは誰もがひとりきりなのです。〉

これがこの本のキートーンである。わたしたちは自分の眼でしかこの世界をみることができない。そして、それをどのように感じているのかは自分だけのものである。自分以外のものにそのヴィジョンを正確にわかちあうことはできない。この世界はわれわれ個人の中にしか存在しない。

 

〈この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もうひとりのダーガーが、いま私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実である。

だがやはり、ここでもまた、もっとも胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。「見出されたダーガーの世界」では、ダーガー本人は自分の営みが報われたことを知らないが、私たちは知っている。〉

〈私は重度のネット依存症で、一日に何時間もパソコンの前で過ごしているのだが、そのうちのかなりの部分を、普通の人びとの携帯ブログや日記を見ることに費やしている。(略)ある携帯ブログサイトは、そのほとんどが風俗嬢によって書かれているのだが、その中身の大半はホストクラブにハマっている話である。(略)他人に読まれていることを前提としていない文章で、中身も断片的すぎて意味がまったくわからないものが少なくない。(略)さらにもっと断片的な人生の断片的な語りは、それこそそこらじゅうに転がっていいて私たちはいつでもそれを見ることができる。「離婚してめっちゃ太ったから激安店しかいけないよぉ」。一ヶ月に一度くらいしか更新されない日記に、たったこれだけの文章しか書いていない。あるいは、アカウントを取得して「マックのテキサスバーガーまじヤばい」とだけ書いたあと三年近く放置されているものもある。これらはいつでもそこにあり、誰でもアクセスすることが、私たちはこの断片的な語りから、何も意味のあることを読み取ることはできない。

だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。〉

〈一方に「コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。

そして、このことこそ「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。〉

〈自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。〉

〈ずっと前に、ネットで見かけた短い文章に感嘆したことがある。こう問いかける書き込みがあった。カネより大事なものはない。あれば教えてほしい。これに対し、こう答えたものがいた。カネより大事なものがないんだったら、それで何も買えないだろ。

おお、これが「論破」というものか、と思った。〉

〈私たちの人生には、欠けているものがたくさんある。私たちは、たいした才能もなく、金持ちでもなく、完全な肉体でもない、このしょうもない自分というものと、死ぬまでつき合っていかなくてはならない。

私たちは、自分たちのこの境遇を、なにかの罰だと、誰かのせいだと、うっかり思ってしまうことがある。しかし言うまでもなく、自分がこの自分に生まれてしまったということは、何の罰でも、誰のせいでもない。それはただの無意味な偶然である。そして私たちは、その無意味な偶然で生まれついてしまった自分でいるままで、死んでいくほかない。他の人生を選ぶことはできないのだ。〉

ヘンリー・ダーガーから風俗嬢のブログへ。ペシミスティックな調子だが、社会学者の秀抜なエッセイ集。

 

この本は改丁で新しい章が始まるが、章は見開きからでその前の左頁に横位置の写真が入っている。カバーと関連するモノクロ写真。抽象的なものもあるが、風景写真がほとんど。右ページが白でおわったり、前の章の文章が残ったりする。対向が白頁だったり、文章があったり、その文章量で、印象がかわる。意図的なものだろうが、これらの写真が次の章のものなのか、前の章につなげているのか、単なる区切りなのか、少々理解に苦しむ。本文のある種の気分を象徴している効果はあるが。

 

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奥付にDTPのクレジットがあるが、組版に疑問がある。文字を組んだ本人と校閲はちゃんと文字組を点検しているだろうか。

本文の行間が広いのは、誰のアイデアか。14Q、1頁=15行×40字詰、行送り24(ほぼ2分4分)、頁を稼ぎたかったのだろうが、読んでいると意外にこの本の文体と内容に合っている。ノンブルの位置はわずらわしい。柱の2行がめんどうくさい。見開きの左頁の左下にあり、新しい頁にすすむ気持ちを阻害している。こんな場所に頁デザインのポイントをおいてはいけない。本文の括弧内小字、パーレンの大きさは並字で、中身だけQ下げしている。こんなのは初めて見た。形は面白いが、変に目立つ。この本では、括弧内小字はどれも文字の大きさを下げているが、文脈を考えると並字のままのほうがよいものもある。スタイルにこだわって細かい技を見せるより、手間をかけるなら普通のことは普通のままで、文章の意味を大切に組版設計を考えるのがよい。著者の意向があるのか、デザイナーの意図なのか。

 

〈ラーメン屋の壁紙〉

こんなフェイクの壁紙。新しい店なのに壁が汚れているなと思ったら、壁紙だった。古びた感じをわざわざ出す必要があるのだろうか。

 

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〈番する犬〉

置物の犬たち。お家の門番をしているブンちゃん。いつもお花をもっている。

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八丁堀の喫茶店のコリー。

 

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中野通りの自転車屋さん。お店にそっくりの生きたダックスがいる。この子はそれをモデルにつくったのかな。

 

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〈練馬の大根馬〉

馬に見えるがなんだか変。入り口の名物熊さんは、全身緑。馬の親子。体が大根。練馬大根。お母さん、おっぱいがある。子馬は何か叫んでいる。馬は頭だけが緑。練馬区立美術館。鹿島茂さんの「19世紀パリ時間旅行」展を見に行ったとき。

 

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〈武蔵美の猫〉

武蔵野美術大学の正門を入ったところにいる猫。守衛さんにきいたら、学校に住みついていた猫で、二年くらい前の学生の卒業制作。学校においていったという。木彫。乾燥してひび割れができている。

 

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〈鼻をなめる犬〉

うちの日めくりカレンダー(page・a・day gallery calendar 2017 DOG)の写真。キャプションには〈なぜ犬は自分の鼻をなめるのか? 研究者たちは、神経が高ぶったときに自分で気分を安らげるためだという。〉

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今日の一曲は

It’s All Right/The Impressions