本多健治、大高郁子、大阪弁、牧村史陽、松本タイポグラフィ研究会

〈本多さん〉
5月2日、私がお世話になった同い年の編集者が亡くなった。ガンである。1984年、私は彼のすすめで東京にでてきて、高田馬場1丁目で村上知彦と一緒に編集とデザインの事務所を開いた。
 
いしいひさいちさんが彼をモデルに描いたマンガ(『ドーナツブックス』より)
 
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創刊42周年「本の雑誌厄よけ展」公式図録「寄せ書き本の雑誌」(2017年/本の雑誌社)の、椎名誠さんと目黒考二さんの対談。
〈目黒 だから二人でそのままやっていたら「本の雑誌」は創刊しなかったと思うんだけど、そこに俺の知り合いだった本多健治が現れて、「本の雑誌」が実現していった。本多は当時、双葉社で「漫画アクション」の若き編集者だったんだけど、なにかの用で会ったときに「本の雑誌」の話をしたら、「面白い! 俺にも一枚かませろ」って言って「その椎名ってのを呼んで打ち合わせをしよう」って。それで打ち合わせをしたら、本多は行動力にあふれる男で、創刊号の日付から逆算するんだよね。
椎名 びっくりしたよな。
目黒 「じゃあ来年の四月に創刊するからここを原稿の〆切にしよう」ってさ。それからあれよあれよという間に創刊号ができちゃった。それが一九七六年の四月なんだ。本多があのとき現れなかったら、「本の雑誌」は飲み屋の話で終わってたよね。
椎名 そうだな。
目黒 それでさ、実は俺、この間久々に本多と会ったんだ。それでね、俺はずっと謎に思っていたことがあって、本多は当時、漫画の編集者だったわけじゃない? しかも相当それで忙しいのに、なんで「本の雑誌」に一枚かませろっていうくらい食指が動いたんだろうって。それで「あのころ、なにを考えてたの?」って聞いてみたら、本多は本当は小説が好きで小説の編集者になりたかったんだって。ところが会社の事情で漫画の編集部に移されて、当時の「漫画アクション」っていうのは大人気雑誌で、その編集者は社内でも廊下の真ん中を肩で風を切って歩いていられるような時代だったらしいんだけどれど、本多は漫画の編集部にいることにどこか忸怩たるものがあった。そこに俺たちの雑誌の話があって、自分がなにかそこに関われないかって思ったんだって。
椎名 そうだったんだ。
目黒 そんなの初めて聞いて、驚いたんだけど。
椎名 彼は元気だった?
目黒 元気だったよ。双葉社の重役までになって定年した。〉
(「対談 僕らはこうやって雑誌を作ってきた=椎名誠・目黒考二」より)
 
私が東京で仕事ができるようになったのはこの本多さんのおかげである。彼は編集者として数々のベストセラーのコミックを手がけている。ご冥福を祈る。
 

本の雑誌本文

 
寄せ書き本の雑誌
 
〈大高郁子さん、つづき〉
前回、『久保田万太郎の履歴書』の紹介で、週刊文春の池澤夏樹さんの書評と表紙を入れ忘れた。
 
週刊文春「読書日記」
 
週刊文春_4月19日号
 
俳人の佐藤文香さんが、大高郁子さんのこの本について書いている(東京新聞5月24日)。
〈久保田万太郎の「私の履歴書」、句集『流寓抄』から文章を引用しながら、万太郎を主人公にしたペン画の作品を配したもの。万太郎が見た景色、住んだ家や交友関係、受賞歴をも絵日記感覚で追うことができ、彼が身近に感じられる。〉
なるほど「絵日記感覚」である。それが『久保田万太郎の履歴書』の面白さなんですね。
 
20180526_東京新聞夕刊_久保田万太郎の履歴書
 
『久保田万太郎の履歴書』の出版記念の個展に合わせて作られた、『名刺判 久保田万太郎句集』。アダナ印刷機の名人で、久保田万太郎のファンの横溝健志さんが、大高郁子さんに絵を描いてもらい仕上げた労作。横溝さんが選句し、一句一点の絵で100枚が名刺の箱に入っている。活版多色刷りもあるのがすごい。珠玉の手技。残部あります。
 
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〈選挙に行こう〉
中野区長選。子供の絵。「選挙にコイ」。鯉らしい魚が描かれている。こんなポスターで選挙に行く気になるのかな。サイズが小さい。A4とA3。掲示板の中でほかのものに埋もれてしまう。他でもない大切な投票をうながすポスターなら、選挙期間は掲示板全面に一枚だけにすればよい。これを見ていると、選挙管理委員会がいかに選挙の社会的な意味をよく理解していないことがわかる。候補者のポスターが貼ってあるパネルの横にも巨大な「選挙に行こう」というポスターをつくってほしい。
まず有権者が投票にきてくれなければ意味がない。この子供の絵は〈平成29年度明るい選挙ポスターコンクール中野区入選作品〉。全国の小、中、高の生徒に、「明るい選挙推進協会」が描かせている。選挙に関心がうすく、毎回あきれるほど投票率の低い日本では、選挙の啓発は大切なことだろう。
デザインの理論や技術からはほど遠く、直接に投票権のない子どもたちがポスターをつくることにどんな意味があるのか。私も中学生のときに、全国安全運動のポスターを描いて大阪府知事賞をもらったことがある。社会にむけて重要な提案をするポスターなのに、なぜグラフィックデザイナーにまかせないのだろうか。啓発のために盛り上げるポスターコンクールなら、子供だけではなく全世代に描かせて、選挙のある時期にあわせて大々的に展覧会をすればよい宣伝になる。応募作が現実にポスターとして使えるレベルの作品なのかどうかは別のことである。こういう公的な告知をするというのはそういうものではない。諸外国では公共広告こそ力をいれてしっかりデザインされている。それぐらいの判断や知識がなければ、まともな「選挙推進協会」でも「選挙管理委員会」でもない。この国の投票率と低さ(特に地方選挙)は、深刻な問題である。そのことをもっと真剣に考えてほしい。投票率が低ければ、組織票を持っている候補者に有利などというのは、とてもまともな選挙とは思えない。
中野区長選の前回2014年6月8日の投票率は29.49%。過去の投票率をみると平成10年(1998年)に25.21%というのがある。選挙期間も短い。不思議に思う。選挙を周知させる努力をしないこととはなんだろう。恥ずかしいのは、投票に行こうとしない区民なのか、選挙があることを知らせる努力をしないひとたちなのか。中野区長選挙のポスターをつくるなら、子供の絵なんかではなく、まずこれまでの投票率の低さを訴えたものでなければならない。かれらには切実さがない。
6月10日の日曜日の中野区長・区議会議員補欠選挙の投票率は、雨天にもかかわらず34.45%と少しあがった。前回、自ら提案した多選防止条例を反古にして4選し、今回5選を狙った現職が負けた。区議会議員の補欠選挙も自民党が落ちて、立憲民主党の候補が当選した。5%投票率が変わるだけでこんな結果になる。
 
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中野駅前の大きなバナー。たくさんの人がこの前を通ってふさぐのであまり効果的ではない。
 
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〈大阪弁と牧村史陽〉
「大阪辯」(大阪ことばの會編/第1輯から6輯までは清文堂書店刊、第7輯は杉本書店刊/昭和26年8月から29年10月まで/B6判/並製だが表紙にすこしチリをつけている)
創刊号の「編集後記」〈雑誌の形式をはずした雑誌、郷土の研究もあれば軽い読み物もある、知識人にも向けば大衆にも喜んでもらえる、そしてあくまでも大阪の郷土色たっぷりのものーこうした最初の企画が、さて取りかかって見るとなかなか思うようにならぬので閉口したが、どうやらここまで漕ぎつけることが出来た。〉
最後になった第7輯の「あとがき」では〈なぜ出さぬのやと、各方面からずいぶん請求を受けた。出さないのではなく、発行所も編集者も共に出せば赤字のために出せないというのが真相である。(略)ところでいよいよ、三年ぶりに第七集が出た。発行所が変わったが、杉本書店主は、赤字もあえて辞さない、大阪のためになることなら多少の赤字くらいかまへんやないかという決意を見せてくれたので私もついに復刊の覚悟をきめた。〉(いずれも、牧村史陽)「大阪辯」は、惜しくもこの第7輯で終わる。
 
毎号の表紙が面白い。第一輯(昭和26年8月/実は23年/奥付の貼り紙が他の号と違うので26年に増刷したものかもしれない)の絵は生田花朝(編集後記で「生田花朝女史の装釘は大阪の郷土色豊かなのもの」とだけ書いてある)。二人の子供が祭り太鼓をたたきながら歩いている。その横で女の子が踊っている。夏の号なら天神祭りだろうか。第二輯(23年10月)は、ねじり鉢巻をした大きな蛸のつくりものにひとが入っているのを、みんなが笑いながら羽子板状のものについたのぞきめがねで見ている。なんだろう。見世物か。山口草平の絵。第三輯(24年8月)は長谷川貞信、表紙に母におわれた幼子が幟をもっている。天神祭りだろう。
第四輯(24年12月)、これは賃搗屋(ちんつきや)だろう。雪がちらつく中、二人の男が火のついた大きなかまどにせいろをのせて運んでいる。うしろのおやじが杵をもっている。絵は菅楯彦。第五輯(26年8月)には表紙絵の解説がある。〈「四天王寺舞楽」陵王の図〉。だが絵描きのクレジットがない。署名は家平。第6輯は「みなみ」特集。道頓堀かな? 今の道頓堀川にくらべると、ちょっと広い感じがする。田村孝之介。第7輯の表紙は「浪花川崎鋳造所之図」(明治4年、1871年、2月に開業した造幣局)とある。長谷川小信(二代長谷川定信)の浮世絵版画。
 
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『大阪ことば事典』牧村史陽編/昭和54年(1979)刊/講談社/四六判/函・上製・表紙=布に印刷・カバーなし/挿絵=四代長谷川貞信)
牧村はこの事典の刊行日(奥付は7月15日)の前、4月25日に亡くなっている。巻頭の「はしがき」は昭和54年初春。
〈本書の前身たる『大阪方言事典』の編集を思いたったのは昭和十年頃であった。(略)その後、同好の士と集まって「大阪ことばの会」を結成し、『大阪弁』に「大阪弁集成」と題してそれを発表(略)とうとう『大阪方言事典』(昭和三十年、杉本書店)という形になったわけである。(略)その後さらに二十数年、再刊を望まれる声を耳にすることも多く、また折りにふれて書き留めた新原稿もかなりの量に達したので、ここに旧版の不備を正すとともに、新原稿を加え、新たな一本として上梓することにした次第である。(略)これをもって、私の大阪ことばの研究はいちおうの纏まりがついたものと考えている。私が生まれた明治三十年代には、幕末生れの者が社会の中核をなしており、それらの人達のほとんどは古い慣習を固守していた。この人達の言葉が私の耳に残っているのを、私は大変幸なことだと思っている。こうした古い言葉を含めて「大阪ことば」の今日までの変遷を記録することが出来るのは、私の年代の者をおいて他にいないと思う。
結局、本書は明治中期以後大正時代までの三十年間を中心として、その後今日まで大阪市内で常用された言葉を集録したものであるが、大都市の性格上、他地方の方言がいくらか混入するのは免れない。都市も生きものであり、言葉もしかり、その点は諒とされたい。また、私の生活基盤が船場にあったため、この地の言葉が多い。しかし、大阪の歴史はこれまでずっと船場によって支えられてきたのであるから、その点、本書のかたより方もいくらか意味があるものと思う。(はしがき)〉
奥付に牧村の略歴がある。〈まきむら・しよう 明治31年10月1日、船場(内本町1丁目12の3)の木綿問屋の長男に生まれる。大倉商業(現、関西大倉高校)卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独学で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。昭和27年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。「郷土史は足で書け」が持論であった。(以下略)〉
 
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大阪ことば_2_表紙
 
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『大阪方言事典』牧村史陽編/昭和30年(1955)刊/杉本書店/B6判/函・上製カバー装/カバーの袖がとても短い。たった30ミリ。
 
『大阪ことば事典』の24年前にこの本がある。巻頭で牧村史陽がこんなことを書いている。
〈本書の編集を思い立ったのは昭和十年の頃であったが、当初はこれを発刊しやうなどといふ大それた考へはなく、ただ自分の備忘のために気の付いたものを一つづつカードに書きとめてゐたにすぎなかった。(略)その間に太平洋戦争といふ大きな事変があったが、軍事に徴用されることもなく、ひたすら好きな道を歩むことの出来たのは幸ひであった。そして、昭和二十二年に至り、同志の賛助を得て『大阪ことばの会』を結成、その機関紙として『大阪弁』を発行し、その中に『大阪弁集成』と題して「あ」から「こ」の部までをはじめて世に問ひ、その後引き続き昨年同第七集までに「み」の部までを掲載した。(略)『大阪弁』は発行する毎に多大の赤字が出て、それがため発行も編者もその物質的負担に堪えず、次号の発行がおくれてゐるような始末であって、これでは折角の期待に添ふ所以でないと、遂に断平この『大阪方言事典』の編集を決意したのである。〉
 
『大阪方言事典』の巻末の「あとがき」からいくつか。
〈近頃、標準語の普及といふか、大阪弁の標準語化とでもいふか、大阪でも、若い人達の間では、たしかに昔の純粋の大阪言葉は聞けなくなってしまった。〉
〈少し気をつけて見れば、我々大阪人の間でも、この頃は相当変てこな言葉を使ってゐることがわかる。
「ちょっとそれ取って頂戴ンか」
などというのがそれである。〉
〈谷崎潤一郎さんの『細雪』が発表せられた当座、これこそ大阪言葉の標本だなどとやかましくいはれた。なるほど、谷崎さんの大阪弁はかなりよく書けてゐる。しかし、あれは実は、昭和九年の関西風水害当時から十五年頃までとはっきり作者が年代を指定してゐる通り、その時分、つまり今から二十年ほど前の、船場言葉といいふものが大分崩れかけて来た頃の大阪弁であり、あるひは、芦屋言葉とでもいふような、東京のいはゆる”ござァます”式の言葉がぼつぼつ出来かかって来たその原型と見てもよいのであって、それ以前の古い大阪言葉ではない。〉
〈大阪言葉の代表は、何といっても船場言葉であって、実にきれいな、何となく甘ったるいものなのであるが、この船場言葉を使ふ人が、今はほとんどなくなってしまった。今一般に使はれてゐる大阪言葉は、実は上町あたりの職人言葉が土台になってゐるのであって、だから上品さを欠いてゐるのは当然のことかも知れない。〉
〈『細雪』の中にも、我々船場人としてはどうも困ると思ふやうなきたない言葉遣いがたくさん出てくる。
『帰るなァ、姉ちゃん』
『こっちもすんだで』
これなどはまるで場末の長屋ででもつかふやうな言葉であって、こんな下品な言葉は、船場では、たとへ目下の者に対しても決して使ひはしなかった。
「帰らはるなァ、姉ちゃん」
もう一つていねいにいふと、
「お帰りやすなァ、姉ちゃん」
何かよそいきの言葉のやうではあるが、我々は実際にかういふ言葉を常に使はされて来たのである。
「行ってきまっさ」ーーこれは「行てきまっさ」と、促音のツを取ると大変やはらかく聞こえる。これが大阪言葉の一つの特徴といってもよいのであって、船場の商家の御寮ンさんなどが、「ちょと行てさんじます」といふのを聞いてゐると、いかにもしとやかな、普通の船場の生活が浮かびあがってくる。〉
〈あの「いらっしゃいませ」ははっきりと東京弁であって、大阪には「おいでやす」といふ独特の味を持った言葉があるのを忘れてゐたのだ。〉
〈この夏発表された映画『夫婦善哉』は、俄然東京方面で好評を博したらしい。なるほど、主役の森繁、淡島をはじめ、浪花千栄子や志賀廼家弁慶などいづれも大阪言葉を使ひこなしてゐる。しかしそれらはすべて中流以下の言葉であって、ここでもやはり船場言葉がまるきり出来てゐない。(略)あの主役柳吉は、いかに身を持ち崩していやうとも、船場のボンボンである。たとえ言葉は下賤であらうとも、その中にボンボンらしい鷹揚な品格が蔵されてゐなくてはあの映画の価値は半減される。〉
〈とにかくかうして、大阪弁は、次第に標準語に駆逐されて、悪い部分だけが残されてゆく。これは今のうちに文字としてだけでも書き残しておかなければ、近い将来に、西鶴や巣林子のあの数々の名作も、大阪の神髄に接することもなくただ机上のみで間違った解釈を下して足れりとしている人達のために歪めたものとなってしまふかもしれないことをおそれて、本書の刊行を敢へてした次第である。〉
 
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大阪方言_2_表紙
 
大阪方言_前見返し_3
 
大阪方言_4_後見返し
 
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大阪方言_5_例言

 
大阪方言_6_目次
 
大阪方言_7_船場_2
 
大阪方言_8_船場_1 

大阪方言_9_あとがき

 

大阪方言_10_奥付

 
〈松本タイポグラフィセミナー〉
青森のあと松本へ行ったのは、「松本タイポグラフィ研究会」の「書物と活字」シリーズ第一回のセミナーに参加するため。これは去年の三月から、友人の向井裕一君が松本の印刷会社のデザイナーたちと、三回の勉強会をした成果である。講師は、最近『文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』を上梓した正木香子さん。宿泊した「松本ホテル花月」の部屋に柚木沙弥郎さんの作品が飾ってあった。6月24日までだが、柚木さんの展覧会が今日本民藝館でやっている。
 

松本タイポグラフィセミナー_1

 
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柚木チラシ_1

 

柚木チラシ_2

 
柚木さん_2 

柚木さん_1 

セミナーの翌日は、正木香子さんと松本市内をぶらぶらする。松本城の後、お昼は開智学校の前で客待ちしていたタクシーの運転手さんが教えてくれた「もとき」という蕎麦屋さん。お店の名前は切り絵風のモダンな描き文字。そのあとに見つけた看板「婦人服のマルキ」。下の電話番号の処理もなかなかである。正木さんの感想は「これでもマと読めるのが不思議ですね」。私はいつも形の面白さだけで、こういうデザインを写真にメモしているだけだが、正木さんの文字の見方はちがう。
その近くの「モード まきやま」の看板もいい雰囲気。こういう看板文字やデザインに惹かれるのはなぜだろうか。単に〈ズレ感〉をおもしろがっているわけではない。すがれた感じや未熟さを笑っているのでもない。なにだろうか。時間の中で置き忘れられてデザインのすべてが面白いというわけではない。むげにできない、だからといって今まともに使えるわけではない。ほほえましいだけでもない。さて。
 
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絵葉書みたいな松本城である
 
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タバコ屋さんの前、舗道の真ん中に郵便ポストがある。道路拡張でこんな向きにこのような場所になったのか。向こうに開智学校が見える
 
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そのたばこ屋さん。横にパイプの絵がある
 
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開智学校。上の塔を修復中。入口の上の天使。設計者の立石清重が、錦絵版「東京日々新聞」のタイトルの絵に感心してモチーフにした
 
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その第一回目のセミナー、正木香子さんの「おいしい文字のチカラ」の報告が届いた。

松本タイポグラフィ_2_報告_1

 

松本タイポグラフィ_3_報告_2

 
「書物と活字」シリーズの二回目は、「本文書体の作り方と見方」というお題で、講師は鳥海修さん。7月28日(土)に松本で開催。

松本タイポグラフィ_4_次回_1

 

松本タイポグラフィ_5_次回_2

 
〈John Prine〉
前回の「今日の一曲」のJohn Prineの新しいアルバム、The Tree of Forgiveness。72歳、ジャケットは現在の彼の顔。すごいです。裏面は、金森幸介君愛用の自称「ベニヤ板」もまけそうな、つかいこまれたマーチンのギター。2005年のFair & Square以来のオリジナルアルバム(前回のは、2016年に出たデュエットアルバムで曲はカバー)。
 
john prine_tree of forgiveness
 
fair & square_john prine
 
今日の一曲
Don’t Give Up On Me/Solomon Burke

(Dan PennとCarson Whitsett、Hoy Lindseyの1998年の曲)
 
solomon burke
 
dan penn