古座川

夏休みをはさんで、ずいぶんこのブログを休んだ。一旦さぼるとなかなか書き出せない。前回が8月7日だから、もう3週間以上過ぎて9月になってしまった。

 

「本の雑誌」9月号(連載エッセイ「百歳までの読書術」)で、津野海太郎さんが6月29日に亡くなった斎藤晴彦さんについて書いている。

 

0904_13_cut軽

 

〈斎藤晴彦さんは私より三つ下の七十三歳。〉

 

〈昨二〇一三年の暮れ、斎藤さんから「正月は山の上ホテルにいるので、ちょっと来ません?」と電話がかかった。〉

 

〈そこで一月二日の午後おそくお茶の水のホテルで待ち合わせ、ほぼ二十年ぶりに神田明神初詣。明神下や神田連雀町のあたりをブラブラ歩きまわり、ホテルにもどって客がほとんどいないレストランで二時間ほどバカ話をした。斎藤さんはワイン。私は焼酎のお湯割り。〉

 

〈「せっかく生きてるんだもの、三か月に一度ぐらいは会って話しましょうよ」

だが、こんどはこちらが入院したこともあって、とうとう約束をはたせないままに斎藤さんは死んだ。したがって、これが私が最後にきいたかれのことばということになる。

人はひとりで死ぬのではない。おなじ時代をいっしょに生きた友人たちとともに、ひとかたまりになって、順々に、サッサと消えてゆくのだ。現に私たちはそうだし、みなさんもいずれそうなる。友だちは大切にしなければ。〉

 

友だちは大切にしなければ。

 

夏休みに、本籍地の和歌山県東牟婁郡古座川町三尾川へ行った。うちの奥さんといつか古座川に行こうと話していたが、結婚後30年以上過ぎて今年やっと実現。私が父方の祖父にそこに連れて行ってもらったのは、50年以上前の小学生のときだ。

 

結婚のときに変えることもできた。いちいち取り寄せるのに手間がかかるが、戸籍はそのまま和歌山にしておいた。

 

天王寺駅、11時17分のくろしお9号。串本14時11分着の予定、ところが、串本到着寸前に電車がストップ。アナウンスで「鹿とショーゲキしました。しばらくお待ちください」。鉄道では〈衝突〉を〈衝撃〉というらしい。かわいそうな鹿を片付けるまで10分ほど待つ。このあたりでは、道路や鉄道で交通機関が野生動物とぶつかることはめずらしくない。鹿、猪、猿が増えているのだ。

 

0904_07_cut軽

(『街道をゆく 8』より)

 

串本でレンタカーを借りて、古座川町にむかう。ここから車にしたのは、帰りの名古屋へは鉄道の本数が少ないから。民宿についてから、6時の夕食までに三尾川まで30分ほどドライブ。郵便局で本籍地の番地をたずねると、現在そこは畑らしい。この地域は日下名が多い。祖父卓四郎がここの出身で、東京で歯科医をしていたことを説明し、縁者をたずねてみたが、個人情報保護法とやらで詳しく教えてくれない。近くの光泉寺のお坊さんならわかるという。行ってみたらお寺は住職が常駐ではなく巡回で、あいにく留守。

 

その光泉寺には、樹齢四百年の銀杏の大木があった。幹のまわりは6メートル、樹高30メートル。これが「子授け公孫樹」として有名で、わざわざ大阪から写真を撮りにきているひとがいた。この木の前の説明書きに〈日下俊斉の故事にのっとり〉と書いてある。

 

IMG_0734軽

 

IMG_0735軽

 

「日本昔ばなし」になった日下俊斉の故事。江戸時代、紀州の南の江住村に日下俊斉という医者がいた。春のお彼岸すぎた頃、俊斉の夢枕に三尾川の光泉寺の銀杏の木の精が若い娘の姿でやってきた。「大銀杏が根をはって田畑の邪魔になるので、切り倒されます、私を助けてくれるのは村人から尊敬されている先生だけです、どうか命を救ってください。」三尾川は俊斉のふるさと、夜をてっして峠をいくつも越え、村人たちのあつまっている光泉寺の本堂に着き、みなを説得する。「古い銀杏には木の精がいる。救ってやれば村人たちの役に立つだろう。」俊斉のために銀杏は救われ、その後、田畑の作物がたくさんとれるようになった。不思議なことがもうひとつ。その銀杏は、太い枝から乳房のようなこぶをたらした。お願いすれば子供のできないひともご利益をさずかるようになり、子授け公孫樹と呼ばれることになった。

 

0904_02_cut軽

 

0904_01_cut軽

(光泉寺の絵はがき)

 

民宿たなみやのおかみさんは、私がきっと日下俊斉さんの子孫だと言ってくれる。まさか、そんな「日本昔ばなし」に出てくる有名なお医者さんと血縁とは思えない。最初は、奥さんと古座川や三尾川を見るだけのつもりだったが、昼間、郵便局で失敗したのですこし調べる気になる。

 

翌日、役場でたずねてみる。詳しい職員の方がいて、日下博規さんという町会議員をしているひとに電話してくれた。この方のお祖父さんが私の祖父のお兄さんで、日下俊斉の孫だとわかった。私と博規さんはふたいとことなる。私の祖父の父は四郎三郎という名で子供を残してアメリカに移住している。昔、この地では海外にでるひとが多かった。

 

その日、博規さんは近所の稲刈りの手伝いのはずだったが、たまたま前夜から雨が降ったり止んだりで中止。それでお会いできた。8月に稲刈りとは驚くが、最近は人手が足りないので5月の連休に田植えをするから、収穫が早くなっているのだ。ここまでの電車から見た田んぼの稲はみな黄金色で穂を垂れていた。不思議に思っていたが、理由をきいて納得。

 

車で三尾川にもう一度行き、日下博規さんに会う。64歳、私より1歳下。梅を育てる農家。梅の木の畑はまわりを、鹿害防止の頑丈な電気ネットで囲まれている。その補助金が出るという。私と顔が似ている。室町時代の先祖の墓石が残る、代々の墓地に案内してもらう。これは小学生のときに見て驚いたところ。彼はこの墓地を守っている。50年前に泊まった家の跡も見せてくれた。苔むした立派な石垣だけが残っている。本籍地の番地がある畑も見せてくれた。

 

IMG_0756軽

(墓地)

 

IMG_0758軽

(博規さんと家の跡)

 

IMG_0757軽

(本籍地の跡)

 

古座川は司馬遼太郎さんがこの地を気に入って別荘がある。今は、主なきままのこされている。東京に戻ってから『街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みち ほか』を読む。まずこれを読んでから古座川、三尾川に行くべきだったかもしれないが、あとで読むのも格別だった。古座川は、私の記憶の風景をこえてすばらしかった。愛犬たちがいる間に来れなかったのが残念だ。来年も行ってみたいと思った。

 

0904_14_cut軽

 

IMG_0727軽

(一枚岩)

 

IMG_0761軽

(天柱岩)

 

IMG_0728軽

(古座川の澄んだ水)

 

IMG_0745軽

(古座川の人口)

 

さて、夏休み中に大阪で見つけた本。

 

『二つの世界』花田清輝著/月曜書房刊/1949年/岡本太郎装幀/A5判/本文12ポ/行間12/40字×12行。12ポといえば、18Q相当。すごい本文。岡本太郎装幀ということで衝動買い。

 

0904_08_cut軽

 

0904_09_cut軽

 

「大阪辯」第一輯~第四輯/1948年~49年(但し、奥付では第一輯は昭和二十六年なのに第二輯は昭和二十三年。誤植かな)清文堂書店刊、第七輯(最終号)/1954年/杉本書店刊/B6判。『大阪ことば事典』を編纂した牧村史陽編集の大阪弁の雑誌。巻末に牧村史陽の「大阪弁集成」。細かく読んでいると楽しめる。

 

IMG_0787軽

 

0904_11_cut軽

 

〈雑誌の形式をはずした雑誌、郷土の研究もあれば軽い読み物もある、知識人にも向けば大衆にも喜んでもらえる、そしてあくまでも大阪の郷土色たっぷりのもの〉と史陽の編集後記にある。

 

長谷川幸延「一幕見」の冒頭の説明が面白い。第七輯は、本文に日活の書体、「日本橋の古書街」の地図に驚嘆。地図内の文字は手書きだ。版下屋さんの技か。

 

0904_17_cut軽

 

0904_10_cut軽

 

この地図の頁を小宮山博史さんにお見せしたら、こんな返事をもらった。

 

〈本文は日本活字工業の明朝ですね。平仮名の寄り引きが左右にぶれる字が多いようです。重心は少し下に設定しているかもしれません。
佐藤敬之輔はこの書体のデザインは朝日新聞の活字を作った太佐源三さんとしています。そんな味もしますが、少し変化をつけようとした意図も感じられますね。佐藤は太佐さんから直接聞いていますので間違いがないと思います。ただ書体のデザイン的特長など聞かなかったのかなと今になると不満が出ます。
けっこう癖のあるひらがなです。「な」や「も・さ・き」などに特長があります。「な・た・い」はフトコロを広く取っていますが、「も・さ・き」は狭い。「か」は太佐さんの癖が出ています。
地図の文字は時代を感じさせます。このくらいの大きさなら自由に書いてしまう、あるいは彫ってしまう人がたくさんいたのでしょう。〉

 

『久保田万太郎句集』三田文学出版部刊/1942年/B6判/上製・函入り。題字のレタリングに驚嘆。こんな上手な人がこの時期にいる。誰だろう。本文は一頁、三句で天地揃え。俳句、索引、後記の組み方は参考になる。ノンブルがイタリックでけっこう大きい。俳句は12ポ、句の前書、索引は8ポ、後記は10.5ポ。

 

0904_04_cut軽

 

0904_05_cut軽

 

0904_06_cut軽

 

今日の一曲は、山の上に住んでいる歌。

Ridgetop/Jesse Colin Young